ようやく画廊 編 ぎゃらり かのこの第1号のカタログが出来上がりました。
2年前の展覧会だったでしょうか、関さんの方からカタログの提案がありました。関淳一さんとは、画廊 編 ぎゃらり かのこが始まって以来の長いお付き合いです。
今回、カタログを制作するに当たり、作家の心中や考えを記録として残すことを目的として作家:関淳一の肉迫のある文章を掲載することといたしました。
文章を作成するにあたり、関淳一×中島由記子のメールのやり取りを2ヶ月ほど行いました。その間メールは、A4用紙10枚程度になりました。その中から、関淳一の作家活動と作品への思いが深い文章を切り取りカタログに掲載いたしました。
評論家や学芸員諸氏の評論文が掲載されたカタログが一般的ですが、今回はそれを敢えて避け、作家個人の人間性を強く押し出したカタログにいたしました。(記:中島由記子)
カタログの文書 関 淳一
2007年暮から08年1月の2ヶ月に亘り、美術についての考え、作品についての想いを関氏からメールで頂きました。A4の紙にまとめますと、11枚にもなるものとなりました。これらも文章が作品を理解するにあたっての一つの布石になればと思いここに割愛・編集し掲載いたします。(画廊編 ぎゃらり かのこ 中島由記子)
12/21
“存在を意識化する”とは“物がそこにあると言うことを実感させる”といった意味合いです。美術がもたらす感動とはこの“そこにあるということの実感”ではないかと思います。そのものの存在自体を意識することは普段ほとんどしませんがその意識を喚起するのに言葉の説明ではなくそのことを感じさせるのが美術だと思います。(中略)この“物を置く”と言うことが美術の核心であると思います。どこにどのように置くのか。彫刻家が置くということにどのような感覚を持っているかはよくわかりませんが、おそらく置くと言うことは彫刻家にとっても最も重要なことだと思います。
12/23
学生の頃は絵を描くことを「物を置く」という感覚まで一気にすっ飛ばしての制作をしようとしていました。
(中略)あまりにも単純ですがもう一度何かを描くことから始めてみようと考え植物の前で描き始めました。絵が具象的になるか抽象的になるかはいわゆるうまく描けるか描けないか。描きやすい材料か描きにくい材料か、描く時間がたっぶりあるか短い時間しか描けないかなどの条件のちがいによって決まってくるものだと思います。それぞれの条件の中でいかに対象をとらえ描くかということで、その強さはごく具象的なものからごく抽象的なものまで様々なかたちで現れてくるものではないでしょうか。また自分にとってその場の空気、温度や湿度また風の動きなどを感じることがとても大切なことだと思っています。
12/24
何かへのアプローチを試みる時、何か基準となる杭のようなものが人間には必要となるのだと思います。大海や広大な砂漠に放り出された時自分がどこにいるのか皆目わからなくなってしまいますがそこに杭を打つことでその杭との関係を作り上げながら位置や場所をかたちづくっていくことができるのだと思います。これは一見、偏ったあくまで仮の場所の認識の仕方のように見えますが、実際が今がいつなのか、ここがどこなのかということを考えた時、決して絶対的な位置の把握の仕方など人間には決してできないのです。
(中略)(作品を作るということが)独自のものであれ、ある伝統に根ざしたものであれ、自分の杭となるものが必要となるのだと思います。それは、どちらかというとある伝統の上に自分を築きあげている場合が多いようです。私の場合はそれが美術、と言うより絵画、と言うより絵を描くことなのだと思います。このことには最近気がつきました。
12/30
(最近、植物の絵を描いています。)一瞬の姿を記憶する装置の備わっていない私には、ひと時もとどまっていない植物の何をとらえ描いたらいいのか、なかなかその答えが見つかりません。
私にとって“描く”とは、何かを描き示すことというより、移ろっていくものとの対話であるかもしれません。
このことは前に書いた、自分の絵にこうあって欲しいとおもっている姿や、奈良や京都の仏像の姿に感じることに通じることなのかもしれませ。やはり美術は“在る”ということを見つめ感じる事なのかもしれません。
カタログのデザイン・構成 スタジオ ハル:磯崎春子





