生きることの枠のなかで
今回の作品は、私が携わっているこの社会と正に対する
「事実」または「真実」を表現したドローイング的な
作品です。
作品に現れた南瓜は、幼少期の成長過程で体験した記憶と
国際化した私たち社会の中で見られた「事実」です。
異民族との結婚、それにより派生された文化は、それを
眺める視線との関係が大きな意味を持ちます。
ここに随伴された歪曲、偏見、苦労は外部との疎通の
ための産物です。
そして、多民族、多文化の中で得られる私の思考は
雲に隠れた太陽が見られる、という期待感の象徴として
存在します。
私は、黙々と修道僧のように磨き、引き、塗り、剥がしを
繰り返しながら、理解と容赦、憎しみを、愛で、尊重し、
注視し、祈って、共にする、そういった真実というものを
求めたいのです。
プロフィール
作品について
どの作品もごろんとした息遣いの感じられる立派な<かぼちゃ>が画面中央どんと鎮座している。どのかぼちゃも「白」色。韓国のかぼちゃは「白」かと作家に聞けば、「否」との作家から返答。
そもそもかぼちゃは、描く対象として美しい形ではない。下が膨れているので重たそうな印象。色も艶っぽくない。りんごや苺のように水水しい印象でも可愛らしい印象でもない。普通3つも描けば飽きてしまう。そんな対象を飽きづに劉は描いている。つまり彼が描いているのは<かぼちゃ>ではなくかぼちゃらしく見える<もの>である。