3/27(火)に日本を出発。NYに行って来ました。
グッゲンハイム美術館、新しくなったMOMA、メトロポリタン美術館。
5thアベニュー沿いギャラリー、チェルシー、ソーホと
古典美術から新しいアートまで。たくさん観ることが出来ました。
米国にあるアートの意味、アートとは。
ギャラリーを経営する上で、新しいアートを見ることと共に、古典的な美術を勉強することは大変勉強になります。また、そのアートがどうしてそこに存在し飾られるようになったのか、と考えることも大変面白いことです。 アートの存在は政治、経済といった複合的な世の中の成り行きの中にあります。今回の旅行では、多くのピカソの作品を観ることが出来ました。グッケンハイムでも、メトロポリタンでも、ワシントンDCの国立絵画館でも見ることが出来ました。5thアベニュー沿いの画廊で売られていた彼の版画は1枚600万円だったように記憶しています。あちこちの美術館で何枚も何枚も色々なピカソの作品を見ると、ピカソの偉大さが身にしみてくると共に、人間臭さ、男性的な荒々しさに惹かれていきます。これら一連のピカソと共にあった美術館の印象画絵画の数々にも新しい感動を覚えました。パリから南仏地方が中心に描かれている絵画が遠く米国に渡り、美術館を彩っています。以前観たオルセー美術館の印象画絵画より数段個性的でバラエティーに富んだ作品が掛けらているように思います。考えれば、米国内の美術館の作品は個人収集家によるものが多く、それらが財団を通じて寄付され美術館に収蔵されています。お金にいとめをかけずというのは事実であるにしても、”絵を買う”その時の迫力のようなものを私は感じました。身銭を割いて集めたものと、公立の美術館が購入する美術品とはどこか異なるように思います。また、個人にしか出来ない、絵画の集め方、蒐集癖のような垢くさいものがどこかあり、アメリカ美術館は、欧州のルーブル美術館やプラド美術館と性格を異にしているように思います。 何故人間はこのように美術を買い、集め、またそれを観ようとするのか、本当に不思議に思います。企画展最終日のグッケンハイムもメトロポリタンも館内は人で賑わっています。$20(=¥2400円 2007年3月現在)もの高い入場料を払ってもアート観に来る理由は何なのか、アートを仕事にしている私でさえ不思議で仕方ありません。 どちらにしても、美術館というのは”国の威信をかけた建物”には違いありません。決して黄金ではありませんが、その国の国民が誇りをもつ建物です。それには間違いありません。日本の美術業界と米国とを比較することは、短絡的だと思います。
ただ、一つ誤解をしてはいけない点があると思います。
ワタシントンDCを訪れ、イタリアにありそうなゴチック建築の建物郡を見て驚きました。14世紀、15世紀にタイムスリップしたと疑いたくなるオーラさえ感じさせる迫力と大きさの建築群。ご丁寧にイタリア人ぽい人の肖像大理石まで各石柱についています。ご当地イタリアでは、歴史的な人物の彫刻ため顔が全部違っていますが、ワシントンの建物では、飾り物のため一様でした。いわば虚構、まねものの世界です。見方を変えれば、通り全体がイタリア建築のテーマパークのような感じです。NYに立てられた19世紀以降の建築物は、古きアメリカの匂いがする好感がもてるものでした。しかし、国の宝物を入れる箱としの建物は、数百年遡った建築物が相応しいと判断し、こういった形になったのでしょう。自国の通貨ドルが世界の基調となるほどの経済大国アメリカ(目下のブッシュ政権のことはさておき)。しかし、いざ建築物を建てると模倣に頼らなければいけない現実。こういう中、アメリカ人の先人たちが国を興す、国を見せる一つの手段としてアートに憧れ、1900年代以降のアートの価値を決めてきたように思います。遠い平安の次代からの歴史を背負っている我々日本人と少し異なると思います。