後評:「評論を書くことを考えてみる。」 第1回

 美術評論を書くということは、それは一つのジャーナリズムだと思います。
 生の現場に赴き、現場の状態を把握し、それを報道し(言葉で、または映像で人に伝え)、その全体像を総括し、解説する行為がジャーナリズムです。

 去る2011/1/29に大学生の皆様にお集まりいただき、作品について評論を書いていただき、作品の前で評論を発表して頂く会を催しました。ギャラリーの高覧者、作り手、学生諸氏の皆様にお集まりいただき、何の目的で美術評論を書くのか、作品をどうやってみていくのか、など様々なディスカッションが生まれました。

作品の見方について

 作品とは、ただ忽然と偶然にそこに現れ、存在するわけではありません。  社会的な背景、作り手の意図、過去の作品からの流れなど、作品からは直接読み取れない事柄を紐解いていく必要があります。また、それと同時に、作品が事実として表している作品そのものを誠実に見ていく必要があります。

 初めて作品を前にして評論を書くという実験的な作業でした。作家について知り、作品について知り、そのテクニック(表現技法)を知るという、段階が必要です。今回は、まずは<作品を分析する>というテーマで進行いたしました。


仲瀬輝明 評論 中澤菜見子 学部4回生


 仲瀬氏の作品を見た時、私は、なにか、邪気があるなぁという感じ、ミスマッチな感じ、そしてどこかで見たことがあるような、すこし懐かしい感じを覚えました。邪気がある、という感じは、モチーフの表現によるものと思われます。例えば、すべての作品に登場する子供や、おもちゃといったモチーフは、普通は無邪気でかわいらしいというイメージでしょう。しかし仲瀬氏の作品においては、おもちゃなどの無生物にも眼や口が描かれていますが、それらの眼は見開かれ、眉間にしわが寄り、歯はむき出しにされています。全体の灰色がかった色彩や、ぬめりのある陰影ともあいまって、かわいらしいはずのモチーフが、悪意のある生物であるように感じられます。ミスマッチな感じについては、異質な要素の混在、という原因が考えられます。共通の主要なモチーフとしてある、子供とおもちゃですが、それらの色彩や形状は、日本のものというより、アメリカの子供やおもちゃ、といった様子です。そしてそれらのモチーフを取り囲む金雲、煙、火炎、水流や蓮の花の描き方は仏画のそれを参考にしていると思われますし、画面隅に見られる印相や子供の手の指の形などは、より直接的に仏教的な要素であると言えます。また、所々に見られる細長い形状の岩石や、何かが垂れ流れているような白色の部分は、男性器を彷彿とさせます。この、三つの要素、すなわちキッチュな子供とおもちゃ、仏教的なもの、性的なものは、画面構成上はうまく融合されていて違和感はありません。しかし、やはり異質なもの同士が混在しているため、どこかちょっと変な感じを、見る人に与えています。最後に、既視感について考えてみましょう。さきほど、普通はかわいらしいイメージの子供やおもちゃが、邪気のあるように感じられる、と言いましたが、実はそういうことは、私たちの誰でもが一度は、とくに子供のころに体験したことがあるのではないでしょうか。例えば、ピエロを怖いと感じたり、人形が襲いかかってくるのではないかと思ったり、ということです。そういった、昔経験した恐怖、のようなものが、ここでは思い出されているような気がします。背景の、青空に浮かぶ白い雲、その白の中に混ぜられたオレンジや緑といった色が、画面全体をよりノスタルジックにしていると思います。子供やおもちゃ以外の重要なモチーフとして、きのこと歯があります。それらには大きな眼が一つ描かれており、子供やおもちゃよりも、わりとしおらしい様子をしています。私はこの歯が、子供とともに描かれることによって、乳歯を連想させると思います。そのような点も、なつかしさを引き起こす一因なのかもしれません。


仲瀬輝明 評論  中岡 穣 博士課程前期 1回生

仲瀬氏の絵画作品、《タルヲシル》(キャンバス、アクリル、金箔、30号)を取り上げ、今回は特にキャラクターに注目してみることで、仲瀬氏の作品について考えたい。
 横長の画面の中央に大きな切り株があり、その切り株を囲むキャラクターや、切り株の上にのっている小さなキャラクター、切り株のまわりにいるキャラクターが画面を埋め尽くしている。地面は緑色で、恐らく草原である。画面の左手前や右端などには地面の隆起している土色の部分がある。後景に険しい山脈が見える。山脈の上には青空が広がっており、雲がいくつか浮かんでいる。画面の上端と下端には、金箔が雲のような形で貼りこまれている。金箔や後景の山脈などの要素は仲瀬氏の作品に多くの場合みられる。青い空に緑の大地、切り株などは童話の挿絵のように類型的で牧歌的である。
 次にキャラクターだが、これについても、仲瀬氏の作品に共通して登場するものが多い。それらの意味を考えるため、子どもと乗り物という二つの種類のキャラクターにしぼって考察を進めたい。

a.子ども
 金髪の子どもが切り株に向かって腰かけている。左手にはリング状の玩具をたずさえており、右手は切り株の上にある城の外壁のミニチュアへ伸ばしている。眉間にしわを寄せ、口元をゆがめるようにして笑っている。この表情が、空や大地といった背景や子ども自身に対して抱かれる牧歌的なイメージを裏切っている。

b.乗り物
 切り株をはさんで子どもと対する位置にロボットのようなものがいる。赤い寸胴のボディやキャタピラは機械のように見えるが、目と口がついており、腹の穴からは人間の腕が切り株の上へと伸びている。口元は笑っている。このロボットには小さな鬼が乗って、操縦桿を握っている。鬼もやはり笑っている。
 目や口のついた機械のようなものはほかにもみられる。切り株の上にのっている、目のついた小さなロケットには、奇怪な緑色のキャラクターが乗っている。画面手前中央の、目と口のついた車には、ぬいぐるみのようにデフォルメされたクマが乗っている。このクマの頭にも操縦桿のようなものがついており、機械の要素を併せもっている。
 機械のようなものはいずれも、背景と同じく童話の挿絵のような、現実味のない造りである。それらにはぎょろりとした目やゆがんだ口がついているために、ただの機械ではなく何か意志をもった生物ではないかと感じさせる。

 ほかにも多種多様なキャラクターがいるが、その中にあって五体満足なのは子どもだけである。ほかのキャラクターは、機械のようなものに代表されるように、生物かどうかはっきりとはわからない外見をしているものが多い。
 機械のようなものはいったい何なのだろうか。最初は子どもの玩具だったものが、意志をもち自ら動き出したようにもみえる。しかし、クマの頭についた操縦桿はその限りではない。クマの身体に切り込み、埋め込まれたものである。ここから次のようにも考えられる。
 ロボットやロケットなどの乗り物たちは、目や口がついているにも関わらず、身体の中をくりぬかれ、ほかのキャラクターに乗り込まれて操縦される。それは身体の中へ切り込み、生物を分解する遊戯である。目がついているだけのロケットは生物ではないか。車に乗っている、頭に操縦桿のついたクマはどうか。生物を分解し、どこまでが生命なのかを確かめる、それは子どもがよく行う、残酷ではあるが無邪気な確認作業である。
 かなたの山脈と金箔により閉じられた世界で行われるこの遊戯を、この絵をみる人はのぞきみて、五体満足な子どもと身体をくりぬかれたものとを見比べ、まなざしでもってこの遊戯を自らも行うのである。この遊戯は、《タルヲシル》だけでなく、子どもや乗り物などのキャラクターをもつ仲瀬氏の作品全体に含まれていると考えられる。
 仲瀬氏の作品をみるとき、背景やモチーフは牧歌的なイメージをもつにも関わらず、みる人がグロテスクであると感じるとすれば、それはたんにキャラクターの造形やゆがんだ表情について抱く感情ではなく、この遊戯に由来する感情なのではないだろうか。


関 淳一 評論  横道 仁志 博士課程後期 3回生 
《絵画と植物――物がそこに在るという実感》

今回の展示に先立つ、2007年暮から2008年1月にかけての二ヶ月間のことですが、作者の関順一さんは、中島さん宛に何回かに分けてメールを送り、ご自身の芸術観、作品観を打ち明けられたそうです。その内容の一部が、お手元のパンフに掲載されているので、ぜひご覧になって下さい。
 先ず2007年12月21日付の文章を読んでみましょう。ここで関さんはこうお書きになっています。


「“存在を意識化する”とは“物がそこにあると言うことを実感させる”といった意味合いです。美術がもたらす感動とはこの“そこにあるということの実感”ではないかと思います.

て、美術作品が――別に話を「作品」に限定する必要は無いのですけれど、今日はタブローを議論のテーマにしていますから――“そこにある”という実感を与える、とはそもそもどういうことでしょう。続く箇所では、関さんは「“物を置く”と言うことが美術の核心であると思います」ともおっしゃっています。“物を置く”。みなさん、今ここで、お茶碗でも小物でも家具でも何でも良いので、ご自分がどこかに物を置こうとしている姿を想像してみて下さい。“物を置く”とは、物を手に取って、しっかりと手に掴んで、煙でもまぼろしでも無い本物の手触りと手ごたえとを感じながら、他のどこでもないただ一点の場所――まさに「そこ」という言葉で指し示される空間――にその物をあらしめることです。と言うのも、もしそこに物を置かなければ、その物はそこに無いわけですから。“物を置く”とは、確かな手ごたえを持つ物を、“そこにある”ようにすることです。言葉を換えれば、私たちは、“物を置く”ことで、その物が“そこにある”と心から実感出来る、そう言えるでしょう。
 すると、疑問が湧いてきます。平面上に表現された絵画に対して、はたして同じことが言えたものでしょうか。もし頭の中だけで、抽象的に考えるならば、タブローの平面には日常で言う意味での「空間」など無く、そこに物を置くことも出来ません。理性は、タブローの中に物があることも、タブローに「中」があることも否定します。しかし、現実に作品を目の前にしたときはどうでしょう。タブローを見る人の目は、画面に「奥行き」を見いだし、そこに物がありはしないかと用心深く探り回ります。今回展示されている六点のドライポイント作品のうち、北側の壁に飾られている三点の版画はどれも、一目見ただけでは、尖筆を流れのままに滑らせたかのようで、にわかには何を描いているのか見定めがたいものさえあります。けれども、画家の手の動きをなぞることで、鑑賞者のまなざしはやがて、言葉で言い表せないほど微妙なうねりを描いて伸びて行く線の戯れのうちに、自らの重みにたわむ長い葉の輪郭を発見することでしょう。そのときには、キャンバスを埋める描線はすべて、描かれた植物の姿形との関係から、彼の前に立ち上がって来ます。そして、ひとたび画面の中に植物の姿形を認めたなら、それは取りも直さず、その植物にヴォリュームがあること、表と裏があること、動きがあること――つまりは存在の手ごたえがあること――を承認したに等しいと言えます。
 展示作の中で唯一のキャンバス画に目を向けてみましょう。いくつかの描線が植物の葉を象っているとおぼしき点や、画面中央やや下に位置する半円形などから、この作品は植木鉢に植わった観葉植物を描いたものだと判断出来ます。しかしそれよりも鑑賞者の目を引くのは、画面いっぱいに描き込まれた無数の炭の動きです。この無数の描線の筆勢は、しかしながらけして無秩序ではなく、互いに相和して、中心から外側へ向けて放射状に広がって行くという構図を形づくっています。そのおかげで、鑑賞者は、この絵が見下ろすような視点から植木を描いたものだと洞察出来るわけです。しかしそれでも、キャンバスの大部分を占領しているのは、木炭によって引かれた一本一本の黒い軌跡――それも、繁茂という形容がふさわしいくらいに大量の――に過ぎないことも事実です。もし本当にこの絵が植物を描いていて、まさに“植物がそこにある”という実感を鑑賞者に与えてくれるものならば、その印象の拠り所は奈辺にあるのでしょう。
 「描線それ自体が」。それが答えだと言うべきでしょう。無数の描線の生む様々な光景が、この絵を見る人に、植物のしなやかさ、弾力、厚み、揺れ、そよぎなどと言ったものを(つまり自然に息づいている植物が持ついろいろな要素を)垣間見せてくれるから、彼は画面の中に植物があると直観するのです。画家の手が描く線は一次元ですが、鑑賞者のまなざしはこの軌跡から量感を受け取ります。タブローの画面は静止していますが、鑑賞者のまなざしはそこに運動を感知します。鑑賞者は、作品の前に居ながらにして、風になびく草花の姿を目撃するのと相通じる体験を享受します。なぜなら、たとえ画面に描かれた線の軌跡は動かないにせよ、まなざしがこれを追いかけるときには、タブローに相対する鑑賞者のパースペクティヴは刻一刻と移り変わり、それに応じて絵画が見せる表情もまた変化していくからです。
 風に吹かれて植物が震え、折れ曲がり、しなるとき、この植物はけして無抵抗なのではありません。反対に、植物は風にも重力にも屈することの無い抵抗を身の内に秘めています。自分の根を杭のように土に打ち込んでいるおかげで、不動の重心を有しています。植物の葉脈、身の丈、そのしなやかさ、弾力、弓なりに反った葉の輪郭などはすべて、そうした抵抗力の現れに他なりません。この点において、植物と植物を描いた絵画とは一致します。まなざしがタブローに見いだすものもまた、存在の持つ手ごたえ、抵抗力だからです。まなざしが絵画に相対して最初に発見するのは、ごくごく当たり前の話ですが、今目の前にしているものが自分では無いという事実、“そこ”は“ここ”では無いという事実です。まなざしの原点は、“そこ”と“ここ”とのあいだの懸隔を測ることにあり、視覚に奥行きを認めることにあります。だから、まなざしが空間――そこ――を認知することと、存在の抵抗力――在る――を感じ取ることとは、じつのところ、同じ一つの出来事と表と裏であるとさえ言えます。
 画面が八の字のかたちに黒く塗り込められている版画作品に目を向ければ、このことは納得されるのではないでしょうか。作者の力強いストロークは、ふたつの球状の空間をキャンバスの中に浮かび上がらせています。それも、押し潰そうにも押し潰せない抵抗の力強さを浮き彫りにするという仕方で、球体の在り様を表現しています。思うに、関さんの語る“そこにあるということの実感”とは、手で直に触れられたり、三次元の延長を備えていたりするかどうかという問題とは関係なく、このようにまなざしの前に立ち上がって来る反発力のことなのでしょう。
 この意味で、確かに画家は“物を置く”と言えます。つまり、まなざしを誘うと同時にまなざしに対抗する存在の厚みを、絵画の中にあらしめます。関さんの場合、このことを可能にするための方法に、手の動きを直に伝える線描という表現手段を選びました。繰り返し丹念に描き込まれた大量の描線は、時間の存在しないタブローの平面に、時間を導入します。タブローには、画家が筆を手に取ってから筆を置くまでの全経過が詰め込まれているからです。そして、その筆遣いのひとつひとつが、関さんがモデルへとまなざしを向けてその都度見たものを表現しようとして生み出されました。ですから、先ほどわたしは「この絵は見下ろすような視点から植木を描いた」と述べましたが、じつはこの言葉は正しくありません。より正確に言えば、この作品には、画家が矯めつ眇めつモデルを眺め続けたそのあらゆる視角が共存しているのであり、そうして彼の目の前で移ろい続けたあらゆるかたちが現前しています。
 そのおかげで、鑑賞者は、関さんのタブローに奥行きと厚みを見いだすことが出来ます。というのも、人間が視覚に立体性を認知するためには、単一のまなざしの中に複数の角度から眺めた光景が重なり合いながら現われて来る、ということがどうしても必要だからです。

例えば、私たちは左の図形を、平面に描かれているにもかかわらず「立方体」であると認識します。その理由は、正面の正方形に対して、私たちから見て右に位置する平行四辺形(色のついた面)が、奥行きを表現しているように感じさせることにあります。

この図形を立方体と認識するとき、私たちはこの色のついた平行四辺形を、たとえ明晰に意識はしなくとも、同時に正方形と見なしています。つまり斜めからの視角によって平行四辺形と見なされている面は、同時に、正面から捉えられるならば正方形と見なされるであろうという推測をともなって直視されるとき、はじめて立方体の側面と認識されます(Merleau-Ponty, Maurice, La phénoménologie de la perception, Gallimard, pp.302-303)。ひょっとすると、幾何学的な考え方に慣れ親しんでいるせいで、空間は、時間とは無関係の絶対座標の上に永続していると、そうお考えの向きもいらっしゃるかもしれません。けれど本当は、空間とは、現在の視覚のうちに、これから何を見るかという未来の予測、あるいは、これまで何を見て来たかという過去の記憶が浸潤している場合に限り成り立ちます。空間は、人間と物とのその都度の相対的な関わりの中でしか出現しないのです。この意味で、2007年12月24日付の関さんのメールの内容は、非常に示唆に富んでいます。

何かへのアプローチを試みる時、何か基準となる杭のようなものが人間には必要となるのだと思います。大海や広大な砂漠に放り出された時自分がどこにいるのか皆目わからなくなってしまいますがそこに杭を打つことでその杭との関係を作り上げながら位置や場所をかたちづくっていくことができるのだと思います。これは一見、偏ったあくまで仮の場所の認識の仕方のように見えますが、実際が今がいつなのか、ここがどこなのかということを考えた時、決して絶対的な位置の把握の仕方など人間には出来ないのです。[…中略]私の場合はそれが美術、と言うより絵を描くことなのだと思います。

 絵を描くとは“基準となる杭を打つ”ことだと言うとき、関さんがおっしゃろうとしているのは、おそらく、絵を描くという行為の最中にのみ、自分と物とのあいだに何か確かな位置関係のようなものを感じられるということなのでしょう。それは、言い換えると、そうして生み出された絵画作品に目を向けようとするときには、関さんご自身であれ、私たちのような鑑賞者であれ、もう一度キャンバスに描かれている物との関係性を新たに作り直す――杭を打つ――ところから始めなければならない、ということでもあります。同じ人間が、同じ物に目を向ける場合でさえ、そこに見える光景に同じものはありません。紙の上に描かれた図形でさえ、止まっているように見えて、一瞬も休むこと無く振動しています。
 そして、もし関さんはおおよそこのように感じ考えて絵を描いているという推測が正しいとすれば、この美術観は、フランスの美術研究者、アンリ・フォション(Henri Focillon 1881-1943)の思考に通じるところがあります。フォションは、美術様式を固定化したものと見なす通念を批判して、『かたちの生命Vie des Formes』という著述をものしました。フランス語のvieという言葉は、“生命”という意味の他に、“生活”とか“一生”などという意味を持っています。フォションは、物のかたちというのは、升目みたいに杓子定規なものではなくて、植物の一生のごとく芽吹き、生長し、繁茂し、メタモルフォーズを繰り返しながら自分自身に固有の生活環を全うするものだと主張したのでした。
 もちろん、関さんが実際にフォションを読んでいるかどうかはまったく問題になりません。美術研究者が論理と検証を重ねて解明しようとするものを、画家はただ手を動かすことによって思索します。しかし、その両者が、絵画の何たるかについて互いに意見を似通わせることがあるとすれば、それは、絵画をつくる者と受け取る者とが、作品体験を共有するための導きとなるかもしれません。しかもそれは、一見すると不可能事に思えながらも、その実、誰もが当たり前に日常で経験している事態です。というのも、物を見るとき、私たちの両の目は、身体の構造上、別々の角度からしか視線を向けることが出来ません。にもかかわらず、私たちは、完全に単一の視覚を体験しています。もし画家と鑑賞者が、お互いに他人同士だという理由で同じ物を見られないというならば、私たちはその前に、自分の右目と左目が互いに同じ物を見られるかどうかを心配しないといけません。
 両の目が同じ物を見つめるとは、この両の目が「共に動いている」ということです。そして、両の目がともだって、まなざしの向けられた対象と「共に動いている」ということです。したがって、物を見るとは物に合わせて呼吸することであり、物と対話することです。同じ意味で、絵画を見ることもまた、絵画との対話だと言えます。そして、こうした対話の中で、物は(あるいは絵画は)まさに“そこにある”という実感を与えるがゆえに、見る人の視線に抵抗します。したがって、物との対話は、いつまでも完結しない問題という性格を持ち続けるでしょう。 “物がそこに在ることを実感する”という出来事は、こんなにも厄介で不思議な秘密を包み隠しています。この出来事は、物を見つめる人自身の存在に絡み付いて変化させてしまうので――それが、かたちがメタモルフォーズを起こすということの意味です――彼を翻弄し、当惑させずにはおかないのです。最後に、今いちど関さんご自身の言葉を引いて、結論に代えたいと思います。

(最近、植物の絵を描いています。)一瞬の姿を記憶する装置の備わっていない私には、ひと時もとどまっていない植物の何をとらえ描いたらいいのか、なかなかその答えが見つかりません。私にとって“描く”とは、何かを描き示すことというより、移ろっていくものとの対話であるかもしれません。このことは前に書いた、自分の絵にこうあって欲しいと思っている姿や、奈良や京都の仏像の姿に感じることに通じることなのかもしれません。やはり美術は“在る”ということを見つめ感じる事なのかもしれません。

佐伯瑠理子(大阪大学大学院文学研究科 博士前期課程修了)

線を描く、線で描く——関淳一展

 関淳一の白黒の世界では、線が主役だ。その線は、決して一様ではない。
Gallery AMI & KANOKOの二階にあがった和室に、関の作品はある。入って右手すぐ、西側の壁にあるのは、節々で太さを変えながら黒くにじむ、枯れ草のような版画の線だ。縦長の画面の上を行きかう線は、束になって下に垂れるかと思えば、重なり合いながら上へ上へと向かい、すっと途切れる。近づいてよく見ると、糸のようにか細く繊細な線が、あいまをかろやかにしなっている。
関は、植物に関心をもっているという。たしかに、描かれた線のひとつひとつは、それ自体が植物のさまざまなシルエットや動きを映し出しているかのようだ。線と線のあいまの余白には、明るく澄んだ空気が流れている。思えば、展示されている作品は、いずれも縦長の構図をとっている。植物に働く重力と、それにあらがうように上へ向かう植物の生命力を、つぶさに見つめ、つかもうとしているからこそ、関は自然と縦の画面を選びとっているのだろう。
北側の壁にかけられた3点のうち、右の1点に目が留まる。束になって流れる線が、今度は輪郭となって、具象とも抽象ともつかないもののかたちを背景から浮かび上がらせている。中でも黒く太い曲線に目をやれば、まるで女性の身体のように、生命と官能性をたたえたかたちが見えてくる。一方で、左に向かう線の流れを追うと、かたちはほどけ、流れそのものへと変化するようにも思える。
一転して、床の間には、色彩をもったキャンバスがかけられていた。全体が明るいグレーの画面の中央上あたりから、薄墨色の木炭の線が、茂みのように放射状に多数ほとばしる。そこに緑青と思われる、半透明の青みがかったグリーンが重なり、画面の下のほうまで垂れ落ちている。作家が直接画面に描いた線は、動きにはやさをはらみ、立体感をもつ。
関の作品には、このように、かたちであり、運動であり、輪郭であり、中身でもある多彩な線がたち現れていて、これが同じ線かと思う。20年ほど前から「描くこと」の根本にかえったという関。彼の描き出す線は、対象をとらえようとする彼自身の意識の営みや、身体の息遣いをもわたしたちにつたえている。


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